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「吾、汝の言に反対す。されど吾、汝の、その言を言うの権利、死に至るまで擁護せん」。学生時代に出会った言葉です。政治をめぐる意見に賛成、反対はつきもの。お互いを尊重しつつ、意見を述べ合いたいものです。 ・
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沖縄、6月23日が終戦の日。――ひめゆり部隊の悲劇。
2005年 06月 23日
●60年前のこの日、沖縄守備軍の牛島司令官が自決した。
沖縄にとって、終戦の日とは8月15日ではなく、今日、6月23日――。 60年前のこの日、沖縄守備軍、第32軍司令官、牛島満は 摩文仁(まぶに)司令部のあった地下壕で自決した。 それで、今日、この日が沖縄で組織的な戦闘が終わったとされ、 沖縄県によって「慰霊の日」と定められ、毎年、「沖縄全戦没者追悼式」が営まれている。 小泉首相も出席し、追悼のことばを述べた。 首相は就任以来、国会審議のために東京を離れられなかった 2003年を除いて毎年出席しており、4回目となった。 ※※ ●山の形が変わり、県民の4人に1人が犠牲になった沖縄戦……。 昨年の年の瀬、12月に、初めて沖縄を旅行した。 首里城、世界遺産に登録された城跡などの史跡をめぐり、 石畳の小路を歩き、青い海を見て、夜は沖縄の料理に舌鼓を打った。 10年目という、観光タクシーの運転手の方はさすがになんでも詳しく、 車中、戦争のお話もうかがった。たとえば、首里城――。 日本軍は文化遺産は攻撃の対象からはずされると計算して、 首里城のあった丘に地下壕を掘り、そこに司令部を置いた。 ところが、米軍は攻撃を躊躇せず、結果、首里城は焼失してしまった。 (※現在の首里城は周知のとおり復元されたもの。) 「首里城のある山の形は、実はいまとはずいぶん違っていたそうです。 艦砲射撃で、形が変わってしまったんですね。雨のように降り注いだのですから。 NHKのドラマ(ちゅらさん)で石畳の道がよく映ったでしょう。 でも、いまの沖縄では、(首里城のふもとにある)金城にしか残っていないんですよ。 歩いたってほんのちょっと、短いです。それでも、残っただけ奇跡だったのでしょうね。 ちょっと止まりますから歩いてみてください。私は車のなかで待っていますから」 沖縄戦での犠牲者は20万人を超え、そのうち12万人以上が、 一般の沖縄県民だった。当時の沖縄県の人口は45万人ほどと考えられているので、 県民の4人に1人が死んだことになる……。 ※※ ●ひめゆりの塔に抱いていたイメージ、……そして現実の姿。 読谷村、那覇市のホテルにそれぞれ一泊し、 ひめゆりの塔、ひめゆり平和祈念資料館は最終日に行った。 沖縄戦に学徒動員された女学生たちが、敗戦の迫るなかで集団自決した――と、 そんなふうな認識でいた。ところが、実際にその地を訪れ、 生き延びた方々の証言にふれて、自分の知識、認識の甘さを恥じる思いにかられた。 決して、小説や映画で美談になったような出来事ではなかった。 それは、このブログにも書けないほど……。 とくに下をうつむきたい気持ちになったのは、 犠牲になった女学生たちの、動員前の学園生活の写真だった。 笑顔が並び、肩を組み、歌い、はしゃいでいるようす。 いまの時代となんら変わらない、夢や希望、明るさに満ちているふうだった。 その彼女たちが、あっという間に戦争に呑み込まれてしまった。 ※※ ●ひめゆり部隊は90日間の出来事。……動員前の彼女たちは青春を謳歌していた。 私自身、誤解していたのは、ひめゆり部隊として女学生たちが動員されたのが、 ほんとうに、米軍の上陸が差し迫ってからだった――ということ。 ひめゆり部隊として動員されたのは沖縄師範学校女子部、沖縄第一高等女学校の 生徒たちで、どちらも全寮制だった。 寮では、部屋ごとに「美人投票」があり、美人には必ず新入生が選ばれ、 選ばれたものは必ずお菓子を奢る、というイタズラな伝統もあったとのこと。 パールバックの「大地」、マーガレットミッチェルの「風と共に去りぬ」、 石坂洋次郎の「若い人」などをみんなで読むような、そういう生活だった。 ※※ ●米軍迫るなか、配属された「陸軍病院」とは……。 米軍の沖縄上陸戦がはじまった1945年、昭和20年3月23日深夜――。 沖縄師範学校女子部、沖縄第一高等女学校の生徒222名が、教師18名に引率されて、 那覇市の東南5キロにある南風原(はえばる)の「沖縄陸軍病院」に向かうことになった。 その、222名のなかには、疎開を希望しながら学校から拒否された生徒、 帰省先の離島から度重なる帰校命令によって呼び戻された生徒もいたのだという。 一方で、生徒たちは「陸軍病院」に動員されると聞いたとき、 そこは弾の飛んでこない、赤十字の旗がはためく病棟であって、 危険な場所とは想像もせず、そこで看護活動をするものと信じた――という。 ※※ ●地下壕に充満した血と膿と排泄物……。 しかし、そこはまぎれもない戦場で、「陸軍病院」とは名ばかり。 蟻の巣のように横穴がはりめぐらされた地下壕で、 土壁に沿って粗末な2段ベッドが備え付けられただけの病棟。 壕の中には血と膿と排泄物の悪臭が充満し、 負傷兵のうめき声、怒声が響くばかりの場所だった。 そこで生徒たちは、負傷兵の看護、排泄物の処理、水くみ、食事の運搬、 伝令、死体の埋葬……などが仕事として割り当てられた。 ※※ ●兵士のうめき声、罵声、危険な食事運搬、水汲み、……そして死体処理。 暗い壕のなかで、生徒たちは昼夜を分かたず働き続けたが、 負傷兵からは、あまりの傷の痛みや空腹に苛立ち、 「俺たちは沖縄を守りに来ているのに、この様はなんだ、お前らも壕を出て行って、 傷ついてみろ」などと、生徒たちに当り散らす人もいたとのこと。 (資料;ひめゆり祈念資料館ガイドブック、以下同) 生徒たちのなかには、任務の途中、たとえば水汲みや食事の運搬などの際に、 砲撃、機銃掃射にあったり、ガス弾攻撃をうけるなどして、命を落とすものが出た。 少し前まで、学園生活を楽しんでいたはずの彼女らにふりかかった凄絶な運命……。 また、極度の栄養失調と睡眠不足で、心身に変調をきたす生徒もでは出始めた。 こうした症状になった生徒は「壕マキ」(壕に負ける)と呼ばれた。 ※※ ●日本軍崩壊の直前……、突如として下された解散命令。100余命が亡くなった。 動員からおよそ90日、6月18日の夜半、米軍の迫る中、 陸軍病院では生徒たちに、突然の解散命令が下された。 「君たちは今日までよく頑張ってくれた。今日からは自らの判断で行動するように」 動揺する生徒たちに、教師は「決して早まったことはしてはいけない」 「安全な場所を探して一人でも多く生き延びなさい」と諭したとのこと。 けれども、重傷の学友をのこして壕を出るのもつらく、 砲弾飛び交う壕の外に出るのも恐ろしく、生徒たちは壕の中からなかなか動けなかった。 また、壕を出て逃げようとしても砲弾に吹き飛ばされたり、ガス弾攻撃を受けたり、 また海に出て波にのまれてしまった生徒たちもいた。 手榴弾で、自らの命を断った生徒もいた。 ……数多くの生徒たちが、みな、父母の名を呼びながら死んでいった。 3月の動員から解散命令までの90日間に19名が亡くなっていたが、 解散命令後のわずかな日数の間に、100余名もの生徒たちが命を落とした。 小説、映画のような美談など、生まれようもない、極限であったと思われる。 ※※ ●運転手の方、「自決ではなく降伏してほしかった……」と。 観光タクシーの運転手さんが話した。 「牛島司令官には自決ではなく、降伏してほしかったと思いますね。 それも、もっと早く。牛島司令官は自決したけれど、そのときになっても、 部下たちに降伏を許さず、最後まで戦えと命じたのですから。 それで、6月23日のあとにも、たくさんの方々が亡くなってしまったんです」 冒頭、6月23日に組織的な戦闘が終わったとされている――と記述した。 司令官が自決した以上、組織は崩壊した、と考えてよいということなのだろう。 だが、牛島司令官は、のこった部下たちに降伏を認めなかった。 それで、沖縄各地における抵抗が続き、犠牲が増してしまった。 …………◇………… ※このエントリーは今後において加筆する予定です。 ※記述にあたっては、次の資料を参考にしています。 ①ひめゆり平和祈念資料館ガイドブック (財団法人沖縄県女師・一高女ひめゆり同窓会発行、2004年8月15日初版発行) ②ドキュメント太平洋戦争6「一億玉砕への道」(NHK取材班編、角川書店、平成6年4月刊) ③戦火の昭和史―興亡と夢4、5(三好徹著、集英社文庫、1988年10月刊)、他
by yodaway2
| 2005-06-23 23:57
| 社会の問題、世相さまざま
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